我包帯す、神癒し給う ---- そして医師は「解説者」になってはいけない
2026.02.12常盤傑医師
「私は包帯を巻いただけ。癒したのは神である」
----アンブロワーズ・パレの言葉として伝わる、この一文は、医療の核心を簡潔に突いている。
外来には、ときどき決まった光景が現れる。
患者が紹介状を持って来る。医師がそれを読む。ここで医師は二種類に分かれる。
一方は、紹介状をいったん脇に置き、患者の目を見て、改めてゼロから診察を始める。
もう一方は、紙面を見つめたまま眉をひそめ、こう言う。
「うーん......前の先生、どうしてこうなったんでしょうね」
この一言が発せられた瞬間、診察室の空気が変わる。
患者の胸に、前医への不信という小さな毒が落ちる。
そして毒を落とした本人は、白衣の下でほんの少し背筋を伸ばす。----得点した気分になるのだ。
前医を下げて自分を上げる行為は、安い酒に似ている。
飲んだ瞬間は酔える。自分が大きくなった錯覚も得られる。
だが翌朝に残るのは頭痛だけだ。残るのは、患者の疑念と、医療への不信である。
前医が診たとき、症状はどの段階だったのか。
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検査は揃っていたのか。患者は何を、どの順序で訴えたのか。
使えた医療資源は何で、時間制約はどれほどだったのか。
そのどれ一つとして、いま目の前で完全に再現できない。
時間軸の違う二つの断面を並べて、後から来た者が「私の方が正しい」と言う。
それは、答えを見てから問題を解いて満点を自慢するのと、どこが違うのだろう。
医学教育で叩き込まれる作法がある。
「先入観を持たず、ゼロから鑑別を積み上げよ」
これは"前医を否定せよ"という意味ではない。むしろ逆だ。
自分の頭で一から考え直しつつ、前医が走った区間を尊重せよという戒めである。
病気には時間割がある。
初日に正体を見せる疾患もあれば、一週間かけて輪郭をはっきりさせる疾患もある。
前医の段階では「風邪としか言えない」局面が、数日後に肺炎の顔を出すことは普通に起こる。
最後の一片が自分の前に落ちてきただけで「完成させた」と胸を張るのは、少し滑稽だ。
鑑別診断はリレーである。
第一走者がいなければ、アンカーは走れない。
もう一つ、前医否定を好む医師が見落としがちなものがある。
自然治癒力だ。
患者が前医にかかり、時間が経ち、自分の外来に現れる。
そのとき症状が軽快していることがある。
前医の治療が効き始めているのかもしれない。
あるいは身体そのものが、修復のプログラムを走らせているのかもしれない。
そこへ後医が颯爽と薬を変え、数日後に患者が「良くなりました」と言う。
後医はうなずく。----だが、それは本当に"あなたの手柄"だろうか。
パレの言葉を借りれば、私たちは包帯を巻いているだけのことが多い。
前医否定の罪は、医師の品位が下がることではない。
患者から「信頼」を奪うことだ。
「前の先生は間違っていた」
そう聞いた患者は、次にこう考える。
「では、目の前の先生も間違っているかもしれない」と。
当然の帰結である。
医師が医師を信用しないのに、なぜ患者が医療を信用できるだろう。
前医否定は、医療という営み全体の足元を、言葉で少しずつ掘り崩す行為だ。
溺れるのは患者であり、やがては医療現場そのものでもある。
もちろん、見解の違いが生じることはある。
追加情報で方針が変わることもある。患者安全のために説明が必要な場面もある。
しかしそのとき、私たちが語るべきは「前医の是非」ではない。
いま分かった事実と、次に取るべき一手である。
必要なら記録を確認し、適切な手続きを踏む。
患者を安心させるために、別の医師を"悪役"に仕立てない。
その謙虚さを忘れたとき、人は医師ではなく、"解説者"になります。
しかも質の悪い解説者は、病気を説明する前に「誰かの失点」を解説したがる。
他人を小さくして自分を大きく見せるのは、実力の証明ではなく、器の告白だ。
前医も包帯を巻いた。自分も包帯を巻く。
医療は勝敗を決める競技ではない。
私たちが守るべきは、自分の優位性ではなく、患者の信頼である。
そして、その信頼は、鋭い言葉より、静かな手順の積み重ねでしか増えない。

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| 2006年3月 | 岩手医科大学 卒業 |
|---|---|
| 2006年4月 | 岩手医科大学医学部泌尿器科学講座入局 |
| 2010年4月 | 岩手県立釜石病院泌尿器科 |
| 2011年4月 | 北上済生会病院泌尿器科 |
| 2012年4月 | 岩手医科大学医学部泌尿器科学講座 助教 |
| 2014年4月 | ときわ会常磐病院 |
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